「自分の言葉」に支配される人間というのがある程度の数いて、逆に「自分の言葉」に支配されない人間もある程度の数いる、という実感を持っています。そして、僕は「自分の言葉に支配される」側の人間でした。
しょーもないことですが、「大学に入った日に『カップラーメンを食わない』と心の中で決めた」以降18.5年間は、カップラーメンは実際に食べたことがなかったりしますし、そういう禁忌・戒律めいた事ではなくて、たとえば目標として設定したものに関しても、その言葉に縛られて努力するのが常でありました。
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ことの発端は、印刷の前工程であるDTPとその周辺における、「至らないこと」「いけてないこと」を、何とか直して行けないかなあと思っていたことにあります。
日本一の印刷会社にすると意気込んで印刷会社に入って5年半ぐらい経つと、行程内のボトルネックが見えてくるものです。それを改善していくことが、僕に課せられた役割だと認識するようになりました。なぜならば、それまでも、課題や解決しなければならない事象があり、それをうまく解決できてきたからです。
そうやって、DTPの行程を改善していくにあたって、どうすればいいかというのはすぐに思いつく。ボトルネック(瓶の首が狭いので流れが滞る箇所)があるのならば、瓶の首を広げてやるようにすればよい。瓶の首を広げるにあたり、首の前後では別段新しいことをしなくてもよい。これを方針としました。そして、アイディア自体は簡単に出てきます。
しかし、どうしても避けて通れないのが「プログラミング」でした。アイディアを具現化する際、行程の工夫以上の作業は、コンピュータによるプログラムで可能となる高効率化でもって行う必要があるのですが、自分自身にはプログラミングの能力がほとんどない。また、社内や社外からプログラマを調達できない。金銭はかからない方がよかろう。よって、自分でプログラムを覚える必要性に駆られました。
おりしも、ウェブサイトのフォーム処理なども担当していた関係もあり、また、Acrobatのフォーム機能による集計プログラムなどをPerlのCGIで見よう見まねで書いていて開発ができていたこともあり、さらには、それまでの業務でのサーバ構築、入社前自宅でのサーバ構築にLinuxを使っていて、それにはPerlがデフォルトインストールされていることもあり、プログラミング言語としてPerlを選択することにしました。
そうやって、幾年間もいろんなプログラムを書いてきていたのですけれども、基本的に前述のようなバックグラウンドがあったうえで印刷会社にいたものですから、担当としては常に一人で書くことになったわけです。一人で書く分には、思いついたアイディアをそのままコードにしていけばよかったのです。
ただ、これが会社の本流の意思決定組織に認知していただくという意味ではまずかったわけで、作って提出するものがことごとく否定されるということになってしまった。ここに業務改善活動は孤独な戦争になってしまったのです。
戦争は、僕がプログラムを作り提案することができない業務へ転属になることで、終結しました。
戦争とか言いましたが、実際には、企画書であったり説明であったりするわけですけれども、どうしていつも劣勢になるかというと、意思決定者に決断していただく際に、後から聞いていないと言われないように、細部を説明してしまうということをやってしまっていたからです。企業としての損失を発生させないようにという工夫が、その企画そのものを実現できない事態を引き起こしていたのでした。
戦線は縮小の一途をたどり、最後には、業務内容的に関係が薄く、企画を意思決定者に伝えるにも苦労するところまで退却を強いられました。